こんにちは、ゆめりんです。
科学アイテムでおなじみの産業科学館ですが、3階には、さまざまな技術
開発に取りくまれている、県内企業のブースがあります。そのなかで、建物
や構造物の耐震と防火の分野で、これからもっと安全で、夢のある未来を創
ろうという会社がありますよ。
一社は、建物に使われる「KES構法」「木質耐火構造」の技術を開発した
(株)シェルター。もう一社は、住宅や構造物の「免震システム」を開発し
たTHK(株)です。
(株)シェルター 耐震KES構法 & 木質耐火部材 COOL WOOD
THK(株) 免震システム装置の動く模型
このように山形県の産業界では、さまざまな新技術の研究や製品化が進ん
でいます。これらの会社では、未来に向けて、安全で魅力のある住まいや、
新たなものづくりに、日々挑戦されています。
暦は、もうすぐ師走の12月になろうとしています。年が明けて2018年は、
明治元年から起算すると150年になるということです。建築物を科学的に解
析して、安全で快適な環境をつくろうとスタートを切ったのは、明治時代の
後半にさかのぼることができるようですよ。
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「地震・雷・火事・親父」
江戸以前から使われていたとされる、この世で怖いものを並べたことわざ。地震大国日本は、大きな火災も恐れてきました。住まいや街が、主に「木」でつくられてきたからです。山形市では明治時代、米沢市では大正時代に、それぞれ2回の大火があり、1000軒以上の公の施設や住宅が燃えてしまい、公私の財産をたくさん焼失してきました。
このような日本で、地震にも強く、燃えない住宅と都市を、科学的につくろうとした人がいました。その人は、佐野利器。明治13年荒砥村(現白鷹町)で生まれ、幼名は山口安平。地元の小学校を出て、米沢中学校(現興譲館高校)に進んだものの、大地主だった家が没落。しかし、苦学ののち佐野家に養子となり、名を「利器」と改名しました。そして二高卒業後、国のために建築を修めようと、明治33年、東京帝国大学建築科に入学しました。
「地震の振動は、構造体にどう作用するのか?」
この研究は、世界でも未知の分野でした。卒業後佐野は、日本とサンフランシスコの地震の現場をつぶさに歩きました。耐震の研究、実作を進めて、ついに『家屋耐震構造論』(大正4年)を発表。この佐野理論が、世界の「耐震構造学」の基礎をつくることになったのです。佐野の門下生たちは、この科学理論を大きく発展させてきました、五重塔を手本にした柔構造、さらに制振構造や免振構造の開発へとつながり、現代に続いています。
昭和33年、高さの象徴と言える「東京タワー」が立ち、日本で最初の超高層ビル「霞が関ビル」が昭和43年に誕生。やがて超高層ビルが立ち並ぶまでになりました。そして、世界一高いタワー634mの「東京スカイツリー」(平成24年)にいたっています。
ちなみに、「東京タワー」の設計は、佐野の門下生である内藤多仲と日建設計。「霞が関ビル」の構造設計は、同じ門下生の武藤清で、設計は米沢出身の山下寿郎。現在の山形県庁の設計も山下設計によるものです。そして、山形県産業科学館の入っている超高層ビル「霞城セントラル」(平成13年)の設計は、「東京スカイツリー」と同じく日建設計となっています。
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さらに佐野利器は、火事で燃えにくい住宅や都市にも着手しました。
大正12年、関東大震災が勃発。さっそく帝都復興院が創設され、佐野は理事、建築局長(帝大教授兼任)として、自ら先頭にたって復興事業にあたりました。それは、世界にも例のない規模とスピードで進められたということです。
そのなかで、道路や大公園が予算の関係で削られていきましたが、これだけはという佐野の夢としてこだわったことがありました。それは小学校を、地震の揺れにも火にも強いことが証明された鉄筋コンクリートで建て、隣に小公園をつくることでした。この大震災を機に、鉄筋コンクリート造が一気に普及していくことになったのは、佐野の果たした役割が大きかったと言えます。
さらに佐野は、「科学技術の時代にふさわしい校舎を」と、設備においては水洗トイレとスチーム暖房を完備させ、専用の理科室を設けようとしたのです。しかし教育局は、水洗も暖房もぜいたくだと反対し、理科室でなく畳敷の作法室を設けるように求めてきました。
佐野は、震災前から計画されていた小学校に、作法室ができたことを知って、現場監督に命じて壊してしまったそうです。とうとう教育局もあきらめたという、佐野の気迫に満ちたエピソードが残っています。
佐野利器は、子煩悩で教育環境の整備にも熱心。日本教育会会長も務めてきました。昭和31年鎌倉の自宅において死去。建築を生涯の道に定めたときから、「建築によって社会と国家に役立ちたい」と強く決意。それを実行した明治らしい覚悟の人でした。
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このように、山形県の先人には、科学的なものの見方と、そのあくなき実践
の心を持ち続けて、人のために役立ちたいと思い奮闘してきた人がいるのです
ね。現代の「東京スカイツリー」でも、ルーツをたどると、科学技術とものづ
くりにかける絶え間ない情熱が、引き継がれてきたことがわかります。